

彼と目が合うたび、胸の奥がざわつく。
「滝沢さん、今日のスーツ……なんか大人っぽくて素敵です」
そんな一言だけで、私はひどく嬉しくなってしまう。
彼の言葉。
彼の視線。
彼の存在──
全部が、夫では満たされなくなった私の心を埋めていた。
そう自覚してしまった瞬間から、
私はもう、まともな先輩ではいられなかった。
金曜日の午後。
社内の女子社員たちが、彼のデスクに集まって話しているのを見かけた。
「ねぇ高橋くん、今度の飲み会、来るよね?」
「また幹事やってよ〜、盛り上げ役♡」
「彼女いないってホント? 信じちゃうよ?」
──若い女子社員たちの軽口に、彼は困ったように笑っていた。
別に、彼は悪くない。
悪くないのに──
私の中に、黒くて重たい感情が湧いた。
嫉妬。
そう、これは完全に嫉妬だった。
人妻のくせに。
先輩のくせに。
彼を“特別”だと思う資格なんて、本当はどこにもない。
けれど、抑えきれなかった。
その日の終業後。
私は、彼のデスクにふらりと立ち寄った。
「高橋くん。ちょっとだけ話せる?」
「はい。どうかしました?」
「……あのね。もしよかったら、今夜、少しだけ付き合ってくれる?」
彼は少し驚いたような顔をしたあと、小さく頷いた。
「もちろんです。滝沢さんとなら、いつでも」
その言葉に、理性が音を立てて崩れていくのを感じた。
選んだのは、会社から離れた場所にあるビジネスホテルのラウンジ。
お酒ではなく、ハーブティーを頼んだ。
照明の落ちた静かな空間。
お互いに仕事の話をするフリをしながら、どこか探るように視線が交差する。
「さっき……誰かと話してたね。女子たちに囲まれてたけど、楽しそうだった」
「え、あれですか? いや、むしろ困ってました。ああいうの苦手で……」
「そっか。……なんか、ちょっと嫉妬しちゃった」
口にした瞬間、もう戻れないと思った。
彼の表情が変わる。
ゆっくりと、真剣な目に変わっていく。
「滝沢さんが、嫉妬……?」
「……だめだよね。私、妻だし。先輩だし。
なのに、そんなこと考えてたなんて……最低だよね」
「違います。俺は……ずっと、滝沢さんだけを見てましたから」
彼の言葉が、胸に深く突き刺さった。
私は気づけば、彼の手に、自分の指を絡ませていた。
「……高橋くん、ここじゃ話し足りない。
少しだけ……部屋に来る?」
自分でも信じられない言葉だった。
でも、彼は迷わず頷いた。
ホテルの一室。
落ち着いた内装と、香りのない空気。
静かすぎて、呼吸の音さえ大きく感じた。
部屋に入ってドアを閉めると、私は彼に背を向けたまま、言葉を選んだ。
「ねぇ……本当に、来てよかったの?」
「はい。ずっと、この瞬間を想像してました」
その声に振り向くと、
彼の目が、私のことを“女”として見ているのが分かった。
そして、ゆっくりと唇が重なる。
静かな、けれど確かなキスだった。
キスのあと、ふたりの距離は一気に崩れた。
彼の手が、私の頬をなぞり、髪を撫で、
そっと肩に触れる。
私も、自分の意思で彼の胸元に手を伸ばした。
「……触れてほしいの。
ちゃんと、“女”として見てくれてるんだよね?」
「……はい。滝沢さんが欲しいです。ずっと」
ブラウスのボタンが外され、スカートがゆっくりとずり落ちていく。
彼の手は、驚くほど優しくて──
でも時折、抑えきれないような“欲望”が滲んでいた。
私はそれを、たまらなく嬉しいと思っていた。
夫には、もう抱かれても心が動かない。
でも今、後輩の彼に身体を預けて、
私は確かに“女”として満たされていた。
その夜、何度も唇を重ね、何度も指を絡め合った。
身体を重ねるたびに、何かが剥がれていくようだった。
「……もう、戻れないかもしれないね」
ベッドの中でそう呟いた私に、彼は強く手を握った。
「俺は、戻りたくないです」
彼の言葉は、まっすぐすぎて、残酷だった。
でも、その残酷さが愛しく思えた。
翌朝、彼と別れて家に帰ると、
何事もなかったように夫が出迎えてくれた。
「おかえり。出張どうだった?」
「……うん、問題なかったよ」
私は微笑みながら、コートを脱ぐ。
罪悪感は、確かにある。
でも、それ以上に──私は昨日、確かに“生きていた”と感じた。
高橋くんとの関係は、誰にも言えない。
でも、あの夜を知らなければ、
私はきっと、自分が“女”だということさえ忘れていた。